日本の高度成長
【戦後まもなくの時期】
GHQによる経済の民主化・・・農地改革、財閥解体、労働組合の育成
※農地改革によって、地主と小作人の関係がなくなり、農民が自由になった。財閥解体に伴い、一部の大企業グループのみが経済に影響を及ぼすという事がなくなり、独占などの弊害も小さくなった。また、労働組合の育成に伴って、経営者と労働者が、労働条件等に関して対等に意見を述べて話し合う機会を持てるようになった。
「傾斜生産方式」・・・当時の基幹産業だった石炭と鉄鋼の増産に特化する事で、日本の工業生産力を復興させる政策。1947年、復興金融金庫が作られ、「傾斜」して特化した産業に優先的に安い利子でお金を貸し出した。
傾斜生産方式の政策によって、急激なインフレ(物価上昇)が見られた。このインフレは、国民生活に混乱を生じる結果になったため、インフレの収束を目指したドッジ・ラインが導入された(1949年)。
この「ドッジ・ライン」は、復興金融公庫融資の廃止を含めた、緊縮財政を行う事で、国の税収と支出のバランスを厳格に維持する均衡予算の方針がとられた。また、1ドル=360円の単一為替レートが設定され、1970年代まで為替レートが固定された。その後、日本は1953年の朝鮮戦争によって、不況から脱出し、1956年には、「もはや戦後ではない」といわれるようになった。
その後、1955年ごろから、1970年代前半まで、高度経済成長が続く。高度成長期には、いくつかの時期に分けられ、それらには名前がついているので、覚えておきましょう。
神武景気 |
朝鮮戦争の特需(朝鮮特需)によってもたらされた好景気。「三種の神器」として、冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビが庶民の憧れとなった。 |
岩戸景気 |
国民の間に「中流意識」がひろがっていった中で、池田勇人首相が国民所得倍増計画を発表。この計画は10年計画だったが、実際には7年で国民所得が倍増した。 |
オリンピック景気 |
1964年の東京オリンピック開催に向けて、東名高速道路、東海道新幹線が開通。オリンピック後は一時的に景気が冷え込み不況になったが、平成時代の不況ほど深刻ではない。 |
いざなぎ景気 |
「3C」として、カラーテレビ、クーラー、車が庶民のあこがれとなった一方、公害問題が顕在化し、経済成長路線に批判的な政党による革新自治体も誕生した。なお、1968年、日本は西側諸国でGNPが第2位になった。その後、アメリカ、ソ連と並ぶ経済大国として存在感を示すようになった。 |
【ニクソン・ショック】
ニクソン・ショックによって、日本は1ドル=360円の単一為替レートから、変動相場制に移行(1973年)。これによって、日本は急激な円高を経験し、その後、2012年に1ドル=70円台後半となるくらいまで円高が進んだ。1ドル=360円のころと比較すると、円高になれば、輸出に不利な状況。日本の高度成長にブレーキがかかることになる。
※
国際収支と為替も参照。
【石油危機(オイル・ショック)】
田中角栄首相の時代の「列島改造ブーム」の最中、中東では第四次中東戦争が勃発。第四次中東戦争をきっかけとして起きた「オイル・ショック」で、石油製品を使う品物すべての物価が値上がりする事態になったり、ネオンなどの自主規制が行われたりした。これによって高度経済成長が終わった。
【プラザ合意】
アメリカの貿易赤字の増大から、先進各国は協調的なドル安介入を行うことにした。これは、アメリカの対日貿易赤字を減らすための円高ドル安の誘導材料として機能し、1985年に日本は円高不況に陥った。
【バブル景気】
1986年から1991年までの間、日本はバブル景気という好況状態となり、その後バブルが崩壊。株式や不動産を中心にした資産の過度な高騰とその後の急激な下落で、平成のはじめごろは企業の倒産などが相次いだ。バブル景気の崩壊以降、日本の景気がうまく好転せず、現時点も含めて「失われた20年」と呼ばれている。
※なお、1991年にソビエト連邦がロシア連邦を含めた独立国家共同体(CIS)に改称し、経済体制は社会主義から資本主義に転換した。
【小泉構造改革】
2001年に就任した小泉純一郎首相が、小さな政府論に基づく経済改革を行った。政府の無駄遣いやしがらみをなくそうとする政策方針は高く評価された。しかしこの政策は、雇用の不安定化(ワーキング・プアや非正規雇用の増加)や、社会的弱者の切り捨てと批判される政策が相次ぎ、所得格差を拡大させるなどのデメリットも大きく、2009年に政権が自民党から民主党に移行することになった。
【東日本大震災・福島第一原発事故】
2011年、菅直人首相の時代に起こった東日本大震災や福島第一原発事故は、日本の戦後の歴史で最も大きな災害で、日本の経済のありかたを大きく変えることになった。関東や東北の各地では、放射性物質の除去のための「除染」作業が必要な地域もあるほど、国民が放射線にたいする不安を目の当たりにすることになった。また、原子力発電所の稼動停止によって電力不足が懸念され、関東の一部では一時的に「計画停電」が実施される地域もあった。また、企業に「電力使用制限令」が発動されるなど、これまで以上に節電が推奨されるようになるなど、オイル・ショック時以上に国民の生活に影響を及ぼすほどの電力危機が指摘された。これをきっかけとして、太陽光発電などの再生可能エネルギーの活用がこれまで以上に推奨されるようになった。
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